「第一章 表現の自由とは」
 少し、まじめに考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 もし、あなたに表現の自由がなかったらどういうことになるでしょう。
 一番簡単なのは、戦前並びに戦時中の我が国の状況を思い浮かべることでしょう。
 実は、戦前の我が国では、お上(天皇)に対して少しでも不都合なことを表現する人間は、ひどい仕打ちを受けさせられていたのです。
 お上(天皇)にとって不都合なことを言う奴は、当時の法に基づき牢獄にぶちこまれていました。有無を言わさずに。
 お上(天皇)の価値観にそぐわない人間は一方的に排除されていたわけですね。
 このような状況下では、当然、表現の自由なんてあり得ないことになります。
 例えば、「戦争反対!!」と、自分の意見を言えば、「天皇陛下の御意志に反する」という理由で逮捕されます。
 ましてや、天皇を「天ちゃん」なんて呼ぼうものなら死刑にされたかもしれません。
 自分の意見を言えないのですから、従うしかないわけです。
 これが、表現の自由がない社会の実体です。


「第二章 同じ人間じゃないか」
 なぜにそんな横暴が許されたのでしょうか。
 それは、天皇が絶対的存在だったからです。神だったわけです。神の言うことはすべて正しい。神に逆らう者は非国民である。したがって、排除されても仕方がない。
 ・・・こういった考え方は、一部の宗教の悪い側面とぴったり一致します。
 ・・・ある特定の権力者だけがいい思いをして、他の一般庶民はぼろ切れ同然に扱われる。
 同じ人間なのにも関わらず・・・。


「第三章 国家と国民の関係」
 もちろん、戦前の日本だけでなく、世界中の多くの国が過去に絶対王政を採っていました。
 そして、革命が起きたのです。世に言う「市民革命」という奴です。
 「すべての人間一人一人がかけがえのない価値を持った人間であり、人間そのものの価値に上下関係などないはずだ。」
 「まず最初に国家や王様があって、その存続と反映のために国民がいるのではない。」
 「まず個人が先にあって、その集まりが国家である。」
 「国家とは、多数の個人間の秩序維持、ひいては個人の幸せのために存在すべきだ。」
 こうした市民革命により、絶対王政は世界各地で崩れ去っていったのです。
 我が国においても、敗戦により、天皇絶対政は崩れ去りました。
 こうした状況下で、お上(現在においては天皇ではなくすべての国家機関)が戦前と同じように、一方的な判断の下に個人の表現の自由を抑圧したり、通信の秘密を妨げたりすることが許されないというのは言うまでもなく明らかな論理です。
 しかし、みなさんの中にもお上(国家機関)が「国民より一段上の偉い存在」のように勘違いされている方がいらっしゃるかもしれません。
 例えば、警察官(もちろん国家公務員)にちょっとでも強い態度で出られると、つい「ははぁ〜」とばかりひれ伏してしまうなど。
 はっきり言っておきます。それは大きな間違いです。真実はその逆です。
 すなわち、お上(国家機関)は、我々一般国民の総意によって創設され、我々一般国民の税金によって維持されているものです。
 国民はまず、国民が皆、平穏安全に生活するために、全体の統制を司り、最低限の秩序を維持するための国家機関(お上)を創りました。
 そして次に、全体の統制や最低限の秩序の維持を実効的に図ることができるようにと、国家機関(お上)に必要限度内での権力を与えたのです。


「第四章 では憲法が必要なわけは?」
 さて、全体の統制を図るために国家機関に権力を託したのはいいが、その権力の濫用により、逆に国民の権利・自由が一方的に侵害され、一部の人間の私利を肥やすような政治が行われたのでは本末転倒であります(権力には常に濫用の危険性が伴う)。
 権力が濫用され、一般国民が犠牲にされていたのでは、戦前の天皇絶対政と何も変わらない事になってしまいます。
 そこで、憲法が必要になるのです。
 二章で述べたように、もともと、国家機関たるお上は、国民の平穏安全な生活と最低限の秩序維持のためだけに、国民によって創設されました。
 そうした国家機関の権力の濫用を抑制し、私達国民の権利・自由を守るために、保険的な役割で国民から国家機関に向けて創られたのが日本国憲法なのです。
 つまり、憲法とは国民から国家に対する命令状の役割を果たしているものなのです。
 これがどういうことかというと、つまり、憲法には「国家は国民に対して、これはするな。あれはしろ。」という形で条文が記載されているのだということです。
 ブルーリボンキャンペーンで言われている通信の秘密に関しても然りです。
 憲法21条2項には「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と「これはするな」の形で明記されています。
 表現の自由に関しても、憲法21条1項は「集会、結社及び言論、出版の自由はこれを保障する」と「あれはしろ」の形で明記されているのです。
 憲法は、国民から国家への命令状ですから、当然、憲法が拘束するのは国家です。憲法によって、主権者である国民が当然の権利として国家を拘束しているわけです。
 したがって当然、私達がその気になれば、国家機関を根底から変革することもできるという建前が憲法96条に明記されています。
 こういう事情があるからこそ、(あの怠惰な)国会でも「憲法論議」が盛んに行われているし、市民団体などでもあれほどまでに憲法にこだわりを見せるのです。
 「憲法って言ったって法律だろ?知ったこっちゃねぇよ」などと勘違いをしないで下さい。憲法と法律は全くの別物です。
 別物というだけでなく、憲法と法律とは全く逆の性質を有するものと言えるのです。法律は国家機関が国民を拘束するものですが、憲法は国民が国家機関を拘束するものなのですから。
 これを覚えておいて、ニュースや政治家の言動を見てみると「なるほど」という新たな発見が必ずあるはずです。


「第五章 つまり、国家機関は国民の奉仕者だ」
 あくまでもお上は、我々国民一人一人の権利を守り、ひいてはその調和を目指すことだけを目的として我々国民が創設し、維持しているものなのです。
 ですから、言い方を変えれば、お上全体が我々国民全体の利益のための奉仕者なのです(憲法15条2項)。これを忘れてはいけません。本当は、あたりまえのことなのです。
 当然、国家機関の一部たる警視庁に勤める警察官も、我々によって維持されている、我々の奉仕者なわけです(なのに、どうしてあれだけ人を見下すようなものの言い方しかできない「とんだ勘違い者」が多いのか・・・)。


「第六章 個人の権利と義務」
 私達には、言いたいことを言い、書きたいことを書く権利があります。それは、人間一人一人がかけがえのない価値を持った存在だからです。
 よって、原則として、個人による自己表現行為に関しては、国民の奉仕者たるお上に許しを請う義務など、どこにもありません。
 その代わりに我々は、自分の言ったことや書いたことに対して個人としての責任を持つ義務があるのです。
 これは、個人対個人の問題であり、もともとお上にどうこう言われる問題ではありません。
 国家が個人対個人の問題に手出しをすることができるのは、その問題がよっぽど多くの個人(社会全体)に対して迷惑をかけている場合か、直接に他人の権利を侵害している場合に例外的に許されうるものに過ぎません。
 お上による刑罰権も、国民が社会の秩序維持のために、お上に対して与えたものなのですから、当然のことです。
 結局、お上が国民に対してよけいな(余分な)手出しをすること自体が、「全体の奉仕者としてのお上」という前提に正面から反しているのです。
 ・・・そもそも国民の権利・自由を守るために国民自身が創設したお上が国民の自由を侵害する。これ以上の矛盾があるでしょうか。
 したがって、私は、お上の権力濫用になりかねないインターネット検閲につき強く反対の意を表明いたします。


 やや、一方的な主張になりましたが、おおかた、これが私がブルーリボンキャンペーンに賛同する理由です。
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                              無宗教教祖 無宗


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